12巻末了平インタビューのこと



 自宅近くの公園の入り口で、待ち人の気配を覚えて雲雀は視線を落としていた文庫本から顔を上げた。
 十数分前、電話でいきなり来訪を告げられたときの高揚した気分が見慣れた輪郭を捉えて再燃する。
 学校で毎日顔を合わせて、一緒に帰って別れ際、離れていく事を堪え難く思うことはあっても、こうして休日に改めて逢瀬を持つことはあまりない二人だ。
 ああして制服を脱いだ了平は、同級生という括りを離れてただ、友人よりももっと近しい関係の存在だ。
「やあ」
「オス」
 濃紺のトレーナーの前ポケットに両手を突っ込んだ了平がどこか覚束ない足取りで近づいてくる。
 心なしか、眉間に寄った皺が深い。
「どうしたの、急に遊びに来るって」
「妹に部屋を占領された!匿ってくれ」
 真剣な顔で宣言されて、思わず眉が跳ね上がる。
「僕の家、避難所じゃないんだけどね」
 何だその消極的な選択肢はと、むっとしながら言ってやる。
 電話一本で浮き足立った自分がまるで道化ではないか。
「うむ。しかしどこかへ出かける事を考えたら、お前の顔が真っ先に浮かんでだな」
 それでも、出来の悪い言い訳のような、本気なだけに尚更質の悪い歯の浮きそうな台詞を至近距離で叫ばれると、雲雀としては肩を落とすしかないのだ。
「…判ったよ。余り大声出さずについておいで」
 

 休日昼間の閑静な住宅街に、先刻の注意など物ともしない了平の怒鳴り声が響いている。
「確かにオレはA型だ。エースのAだ。オレはこの血液型は非常に気に入っている!しかしだな、オレが便所に行って帰ってきてもまだ、似合う似合わんと一歩たりとも話が進んでおらん!」
 つまるところ妹達の発する乙女趣味のオーラが部屋を覆い尽くして、無粋な兄が退散の憂き目にあったとそういうことらしい。
 妹だけなら兎も角、その友人まで何故了平の部屋に集まったのかは後でじっくりと追求することにして、以前何回か訪ねたことのある彼の部屋を思い出す。
 まるで殺風景な、それだけはきっちりと整頓されたボクシング関連の品物以外には散らかる程の物も無い。
 よく言えばストイック、悪く言えば貧乏臭い部屋で、よく好き好んであんな部屋で占い話だのに盛り上がれるものだと雲雀は少女達にうっかり感心しかけた。
「ふうん、女の子は好きそうだねそういうの」
「他に話すことがあるだろう!ボクシングとか、ボクシングとかボクシングとか」
 結局は為すすべも無く勢い負けしたのが悔しいのか、拳を握りしめ文句を垂れる了平に雲雀は人の悪そうな笑顔を浮かべた。
「へえ、それでついて行けなくなって尻尾巻いて逃げてきたんだ」
「…しかしな、オレとておめおめと只退却した訳ではないぞ。台所に出ていた来客用の煎餅を奪取してきてやった」
 トレーナーの中からずるりと出てきたのは、ざらめだの海苔だの抹茶だの数種類入った、普段スーパーで売っていそうなものよりは多少凝った外装の煎餅で、了平はそれを自信に満ちた口調とともに雲雀の腕に押し付ける。
「ついては渋い緑茶を所望するのだが」 
 自分の苗字が重々しく表札に掛かった門柱の前で、温く体温の移った菓子の袋を抱えながら雲雀は再び深く溜息をつく。


 湯気の立つ湯飲みと深皿に移した煎餅を盆に載せた雲雀が自室の扉を開けた時、了平は既にカーペットの上に寛いだ様子で胡坐をかいて座っていた。
 床に足を折って広げた座卓に食料を並べる雲雀の指先、手のひらから手首を通り、これだけは指定制服に則った白いカッターシャツに隠れた腕に続く筋をしげしげ眺めながら了平が問う。
「しかしお前は休日も制服なのだな。家に居る時位は着替えないでいいのか」
 ベージュ色のブレザーの集団の中にくっきりと浮き上がる漆黒の詰襟は今は無造作にベッドに投げ出されている。
 夏場や中間服に比べてネクタイも締めないラフな格好ではあるのだがそれでも制服には違いなく、細身のシャツが如何にも肩が凝りそうで心配してやった筈が帰ってきた応えはにべもないものだった。
「助平」
「何い!何故そうなる!着替えるというなら外に出ててやっても良いのだぞ」
「そうやってわざわざ気にするのがやらしいって言ってるんだよ」
「……!む…」
 そう返されると了平としてはぐうの音も出ない。
 膝をついた雲雀は座り込んでいる了平よりも幾分上半身の位置が高かった。
 水平にした視線の先の、ボタンを緩めたシャツの襟元から覗く首から肩にかけてのラインは一度意識したが最後、呼び醒まされた記憶と結びついて容易に頭から離れることがない。
 目を逸らすのと、熱の上った顔色を落ち着けるのとで背けかけた頬はついと雲雀の指が掛かって正面に固定される。
 もう片方の指でトレーナー越し、腕を柔らかく押さえつけられた。
 沸騰寸前の熱湯で淹れた緑茶の入った磁器に触れた雲雀の指先はその一点だけやたらと人工的な熱さを帯びている。
「ま、お望みならストリップくらいやってあげてもいいんだけど」
 切れ上がった眦のなかの、思いの外に鮮やかな褐色の瞳がお世辞にも上品とは言いがたい笑みを上せて閃く。
「…了平」
 吐息だけでそっと囁かれる、普段の彼にそぐわない甘ったるい声は、二人だけの決まりごとのような始まりの合図だ。
「お前、しかし母上が」
 先程挨拶を交わした家族の存在に思い至って、了平は慌てて雲雀のカッターシャツの肩口に手を重ねて押し戻そうとした。
 けれど、
「―しいっ」
 言葉を継ごうとした口を指先で封じられて、そのまま唇を落とされれば抗う術もなく、突っぱねようとした腕は、力を失ってただ肩に掛かる。


「――ぷは」
 最初に触れる時互いに息が止まるのは、数を重ねても改善される気配がない。
 自分のことながらたどたどしさに苦笑が洩れる。
 大概そのうち頭の芯が溶けて、相手の熱を貪る以外の事などどうでもよくなってはくるのだが。
 息を吸い込んで、一時酸素を供給したあとまた重ねる。ひとの唇に、肌に吸い付いて、舌で感触を味わうのがたまらなく楽しくて心地よい。
 了平の掌が雲雀の腕を強く捕らえて指の感触がシャツ越しに食い込んだ。
 力の抜けた膝がかくんと折れて、ずるずる床にへたり込もうとすれば、ベッドの枠に背中がぶつかってそこで止まった。
 のし掛かってくる了平の身体の重さと熱さ。荒い息を繰り返す唇が、雲雀のそれから糸を引いて離れた時、
「りょう、へ」
 思わず、上ずった悲鳴が口から迸った。
 後から思えばそれ程の大声ではなかったのだが、押し殺した濃密な空気の中、その声だけがやけに響いて、さっと熱の渦巻く頭の中に一条の冷気が吹きつけた。
 きつく密着した身体と、廻した腕はそのままに、息を殺して階下の気配を辿る。暫く待っても机の脇に置かれた時計の秒針の音以外、何の変化も無いことを確認して、同時に安堵の長い息を吐いた。
 

「お前、さっきひょっとして機嫌が悪かったか」
「ん?」
 並んで寝台に背もたれて、器用に手土産の個別包装を前歯と片手で引き開けて海苔の煎餅にかじりつきながらくぐもった声で了平が唐突に聞いた。
 雲雀は、随分と醒めた湯飲みをこれも片手で啜っていた。
 残った手は二人の間で掌が重ねられて緩やかに繋がれている。
 見よう見まねで淹れてみた、茶葉が多すぎた上に熱湯で痛めつけた日本茶はどろりと濁って渋いを通り越して苦いの域に達していたが、極限男が渋さを要求してきたのだからこれで丁度いいのだと、雲雀は自分を納得させる。
「最初、触り方がなんというかこう、きつかった気がするのだが」
 身体で体感するまで気が付かなかったというのが了平らしいといえばらしいが、あれだけはっきり言いつけてやったのに全くけろりと気にしていなかったのは如何なものかと雲雀の眼が細まった。
「君、休みに妹の友達に会う時間はあるのに僕に会う時間は無いの」
 下らない嫉妬と言われるのも半ば覚悟の上で早口でそう言い捨てると、ふと真剣な表情に切り替わった了平が、正面に向き直って雲雀の両肩に手を置いた。
「うむ、それなのだが」
「うん」
「オレは現在、今までの人生になかった程に気力体力が充実しているのが判るのだ。生涯の恩師にも出会えた!オレという男が大きな成長を見せるには、今をおいて他にないと考える」
「…うん」
「だからトレーニングを生活の最優先に考えたい。何より、これからオレがお前と肩を並べて歩いていく為にそうしたい。すると、極限的に自由に出来る時間が少なくなっていく」
「………」
「計算すると、一日のうちまとまった時間は多い日で三時間しかとれんのだ!」
「あるじゃないか。時間」
「お前には不足だ!」
 真面目そのものの了平に、雲雀は様々な感情に基づいて沸き上がってくる眩暈を抑えるのに苦労した。
「あのさ。今日、君と一時間位過ごしたね」
「うむ。名残惜しいが、そろそろ行かねばならん」
「明日は」
「む…二時間あるな」
「足したら三時間だよね。そうやって、重ねていけばいいんじゃないか」
「…おお!その通りだ流石だな雲雀!」
 顔を明るくしてぽんと膝を打つ了平に、、口には出さず雲雀はそっと付け加えた。
「それに、延長って手も幾らでもあるからね」