梅雨



 絹糸のような細い雨が音もなくしとしとと校庭を濡らしている。昼過ぎから降り出した雨はやむ気配も無い。雲雀はエントランスの下足箱で、僅かに目を眇めて外の景色を一睨みすると、真っ黒い折り畳み傘を鞄から引き抜いた。
 日没からいくらも経っていないはずなのに、雨雲に覆われた空はひどく暗かった。
 骨ばった古い傘をさしかけて、すたすたと正門へと向かう雲雀の視界の隅に、校庭の端の部室棟にぼやけた白い灯りが映った。
 あの場所、この時刻。思い当たる人影はひとつきりだ。
「…了平」
 雲雀は踵を返し、ぬかるんだ校庭の泥を跳ねさせながら早足で明かりのほうへと向かう。
「―ねえ、そこの君。部活時間は終了しているはずだけど」
 屋根の下、乾いたコンクリの渡り廊下にたどり着き、ぬっと明かりの洩れる窓から首を突き出して言ってやれば、振り向いたのは案の条例のボクシング馬鹿だった。手を離してもまだぎしぎしと揺れるサンドバックの傍で、ぽたぽたと流れ落ちた汗が床に染みを垂らしている。
「おお、雲雀か!なに、部活に熱中していたら先に帰った連中の誰かがオレの傘を間違って持っていってしまったようなのだ。ついでだから雨の止むまで鍛錬に精を出していようかと思ったのだがな」
 照れたように頭をかきながら了平は言った。
 鍛え上げられた筋肉から滝のように流れ落ちる汗が彼の上半身を光らせている。
 顔を出した窓の際まで近づかれたとき、ふわりと火照った熱が雲雀の頬をなでていった。外気の冷涼さとは真反対のそれに雲雀はかすかに目を細める。
 外の雨は、いつの間にか勢いを増してばたばたと部室棟の薄い屋根を激しい音を立てて叩きだしており、止むどころではない。
「気象情報で、明日まで降り続けるって言っていたじゃないか」
 朝、出掛けにざっとチェックした新聞の天気欄は午後以降、大きく広げた青い傘の雨マークが日本中を覆っていたはずだ。
「むっ。そうだったか。ならば夜っぴて鍛錬というのも」
「ばか」
 放っておいたらこの男、本気で部室で夜明かしもしかねない。当初あったであろう、濡れながら帰る、という選択肢は既にきれいに頭の中から抜け落ちているに違いない。
「何だと!」
「馬鹿言ってないで帰るよ。早く着替えて」
 雲雀はそう言って、手に持ったままの折り畳み傘を了平にも見えるように持ち上げ、軽く揺らして水気を振り落として見せた。



 雨の中、夕闇は次第に濃くなりまさる。
 さっぱりとした新しいシャツと制服のに着替えた了平は上機嫌で傘の左半分を占領している。
 そしてそれでも飽き足らず身動きするたびに手足がテリトリーの外側に勢い良くはみだして、眉を顰める雲雀に傘の軸を揺らされて手酷く弾かれた雨粒を食らうのも毛ほども気にした様子も無い。
「いや、正直助かったぞ!こういう冷たい雨は運動後にはよくないのだ。筋肉が冷えて故障も置き易くなるしな」
「頭痛とか関節痛とか多いっていうね」
 身体の不調を訴える生徒で保健室が溢れかえり、湿気で尚更陰鬱な廊下にまで女子の黄色い声と例の不良保健医とのはしゃぎ声が溢れて、風紀委員の出動と相成ったことが一再ならずある。
「うむ、血の流れが悪くなるからな!だからこそ日頃からの鍛錬が肝要なわけだが」
 言って、シャドウボクシング宜しくひゅっと拳が空を薙いだ。
 十分なスピードをもって繰り出されたそれが雨粒を弾いて肌を濡らすのを雲雀の眼ははっきりと捉える。
 いつの間にか、清々と乾いていたシャツは外側の肩口を中心にぐっしょりと濡れそぼり、張り付いた布地からTシャツの鮮やかな色合いが透けて見えるまでになっていた。
 雲雀は黙然と傘を掲げた腕を傾けた。
 もう少しだけ了平の身体を傘の中心へと来るようにしてやったのだが、身振り手振り大げさに動き回るせいで了平の腕から先は相も変わらず滴る雨水に晒されている。
 反対側の傘の端から落ちた雨が、雲雀の制服の袖口をも濡らし始めていた。
 ぱしゃん。
 そのとき、傘の骨をつたい、露先から落ちた大粒の水滴が、丁度顔を逸らした了平の額を直撃する。
「うお」
 つうと滴る水が睫毛を濡らして、流石に一瞬動きを止めた了平が、かかった雨粒を弾くように数度まばたく。
 その表情はあまりに屈託無く邪気無く、
 雲雀は反射的に腕を伸ばして了平の肩を引きこんでいた。
「何だ」
「濡れたくないとか言ってるのは、誰さ」
「む」
 了平はばつの悪そうな顔をすると、口をつぐんで大人しく傘の中に雲雀と身を寄せ合うように収まった。 
 けれど、二人の歩みはそのまま留まり、どちらも次の一歩を進めることはなかった。
 掴んだ肩は、部活に励んでいたせいで、傍に居るだけで火照ってくるような熱を保った身体とは対照的に雨に打たれてひやりと冷たい。
 それでも、暖めるようにてのひら全体でじっと包んでいると、じわりと皮膚の奥から熱が湧き上がってくるのがわかった。
 車の通りも無い、薄暗い往来で立ち尽くして傘を激しく叩く雨音を聞きながら、二人とも黙り込んで口をきかない。
「――」
 密着していた為に触れあっていた了平の指先がふと動いて、強い力で雲雀の腰を抱き寄せた。
「ヒバリ」
 互いに正面に向き直った体勢で、普段よりかすれた声が耳に届いた。
 雲雀は小さく笑うと肩をつかんだ腕をずらして了平の首っ玉にしがみつく。
「お前、案外暖かいのだな」
 うっすら湿った黒髪に頬を埋め、柔らかい声音で雲雀の背中から腰にかけての輪郭をなぞりながら了平が言った。
 体温が通り過ぎたあとの皮膚に心地よい熱さが残り、やがてそれは了平のではなく己のうちから生まれた熱なのだと自覚する。
「君を見ているとあったかくなるんだよ」
 そして触れられる度に、触れる度にだ。
 二人でくすくすと笑いながら、きつく抱き合って、雨の中濡れて冷たい布越しの、互いの体温を味わっていた。