卒業生


 並盛中の中央棟の屋上で、目当ての人物を探し当てた了平は一瞬目を見張り、それから
「三年前に戻ったようだな」
 そう言って破顔した。
「おはよ」
 視界に了平を認めると、大きく欠伸をしながら身を起こした雲雀の身に纏っているのは、まだ糊も取れていない真新しいベージュのブレザー。
 並盛中学指定の冬服に袖を通すのは、この学校に入学してから最初の学期も終わらないうちに校内校外問わず近隣の不良を徹底的に締め上げて回り、その過程で得た風紀委員の腕章と並盛の旧き良き時代を顕す古色蒼然たる詰襟を身に纏うようになって以来だった。
 夏場は一人だけ詰襟を脱ぎ捨てて他の生徒と同じ格好だったがブレザー姿は着慣れなくてやはりどこか落ち着かないらしく、寝皺の付いた上着の裾や襟元を引っ張っているのが了平の目に付いた。
「委員会室に誰も居ないと思ったらこんな所で寝ていたか。何だお前、随分冷え切ってるではないか」
 まだ眠気が取れないのかどこか茫とした様子の雲雀の横に大股に近づいてどさりと隣に座り込まれた。
 ぴったり寄り添うと、同じカラーの布地を通してじわりと了平の体温が伝わってくる。
 触れ合った部分の温もりが、あまりに心地が良くて眩暈がした。
「さっき風紀の引継ぎをやってきたんだ」
 昼寝には最適とも言いがたい環境で転寝をしていたことの言い訳のように雲雀が答える。
 昼間は日が差して熱せられたアスファルトがそれなりに暖かだった屋上は、日が落ちて風も吹いてきた今底冷えのする寒さに包まれている。
 そんな地面にずっと寝転がっていたのだから体温が奪われるのも当然だった。
 姿勢を崩して了平の肩に深く凭れるとすぐ上のほうでくすぐったそうに笑う気配がした。
「ははあ。草壁の奴やっと観念したのか」
 年が明けてからの数ヶ月、委員長が並盛中学に在籍される限りはと頑なに腕章を譲られるのを固辞し続けていた男の名前をいきなり出されて雲雀は僅かに眉を動かした。
 もとより了平は聞いた噂をそのまま垂れ流しにする性質ではない。
 一々紹介するまでもなく、了平は風紀委員に顔が売れていた。
 その原因はただ単に目立つ生徒というだけでなくその交友関係が大部分を占めていただろう。
 気まぐれも極まった絶対権力者である雲雀と妙に親密な上に、隙あらばボクシング部への勧誘を所構わず始めようとするのだから大概煙たがられている様子ではあった。
 以前、平素無駄口を叩かない副委員長の口からこの男の話が洩れた事があって、構わないから活動の邪魔になるようだったら叩き殺しておけと言っておいたことがあった。
 以 降、どちらかが入院したとか学校を休んだということもなかったので立ち消えになったのかと思っていたら、いつのまにか確執を通り越して通じ合うものでもあったのだろうか。
「よく知ってるね。まあ卒業だから仕方が無い」
 近い距離で目を覗き込む。すると実にあっけらかんとした答えが返ってきた。
「うむ。ボクシングにうってつけの重くて良いパンチをしていたな!惜しい男だ!」
「いつのまに仲良くなったんだか」
「仲が良いというか。お前あれで随分委員連中に慕われていたようだな、あまり馴れ馴れしくするなというような事を幾度と無く言われたもんだ」
「的確な忠告じゃないか」
 慕うとか慕わないとかの問題ではないと思うのだが。
 肩に顔を埋めたまま、まぜっかえすように実際のところ少しも反省しては居ない自省的な言葉を呟いてみると思い通りの反応が返る。
 ぐいと頭を抱きこまれて引き寄せられた。
「オレに向かって今更謙遜するな、ばか。その袋今朝はなかったが引継ぎしてたというなら貰いものだろう。さては食い物か?」
 話題に上った、脇に置いた駅傍のデパートでよく使われる紙袋にちらと視線を走らせると途端うんざりした顔をして雲雀は言った。
「…食べるならあげるよ」
 雲雀の身体越しに手を伸ばして袋を掴み取る。
 思ったよりも軽い感触に怪訝な表情、中を覗き込んで思いがけない内容に更に目を丸くする。
「ほー。花束か」
 袋の中にはシンプルな包装ながらいかにも春めいた色合いの中位の大きさの花束が収まりかえっていた。
 卒業シーズン柄よく見かけるタイプではあったし花束くらい了平とて卒業式に他の三年生全員と一緒に配られる予定ではあるが、あの風紀一同からの心尽くしと思えば似合わなさに笑いもこみ上げてこようというものだ。
「それ見ろ、矢張り慕われとるではないか」
 笑いだした了平にいよいよ雲雀はいよいよ苦虫を噛み潰したような表情になる。
「むさい男の集団に花なんか貰って嬉しいもんか気持ちが悪い。手の込んだ嫌がらせだったんじゃないかと考えてる所だよ、君もいつまで笑ってんの」
「いや、お前も変わったなと思ってな」
「は」 
 そしてそれだけ不機嫌な顔をしておきながら律儀に受け取る雲雀を思う。
 以前の彼であったなら、嫌がらせと疑った瞬間相手ともども踏み散らかしていたのではなかろうか。
 初めて会った頃の、すっと姿勢良く立った全身から発せられていた気怠げな悪意。
 その陰に潜んだ真っ直ぐなトンファーの撃ち筋を、手合わせの中で見て取った了平は一息で気に入ったのだったが。
 普通の中学生であれば到底しないような幾つもの経験を含めた学生生活を過ごすうちに、彼を取り巻いていた人を寄せ付けない雰囲気もすこしずづ解れていったのだろうか。
「3年前のようだと言ったのは訂正せねばならんかもな」
 頭を引き寄せて、少し長めの黒髪に指を通す。
 梳くたびに、さらさらと流れ落ちるその感触は、了平以外誰も知らない。
 一歩踏み込むたびに、殴られ蹴られ呆れられした果てに、自分だけが勝ち得たものだと、不意に子供じみた優越感が沸いて、手のひらから離れた髪にもういちど指を触れた。
 気配を受けたかのように、くすぐったそうに目を細めて髪への愛撫を受け入れていた雲雀が唇に笑みを刻む。
「君も変わったよ」
「む」
「そんなふうに触るようになった」
 途端、了平の頬が薄暗い中でも明らかにわかるほど赤くなった。
 目に見えて狼狽して、引っ込めようとする手を逃すまいときつく捕らえる。
「これはその、ええい離せ!」
 照れ隠しのようにわめく了平をきれいに無視して更に深く絡めた指が熱い。
 屋上からの遠景には、まだ蕾の桜並木があった。
 もう数週もすればまた、薄紅色の花びらがこの国を染め上げる。
 生まれてからずっと当然だったその色が、いずれ遠いものになるのだと、夏の終わった辺りから、薄く雲雀は予感していた。
 けれど、どこにいようと関係なく。
 この先なにが起ころうと変わらず隣に立つ。
 疑うことなく傍に在る。
 そう、確信できる存在があるということ。
 雲雀が変わったとするならば、きっとその望外の幸福のせいだ。
「ねえ了平」
「―あ?」
 ばたばたと暴れる、色気のかけらも無い腕が、雲雀にとってどれだけ大きい位置を占めているのか了平は気づいていないのだろう。
「僕、君に会えて本当に良かったよ」
 その手を頬に押し当てて、囁くようにつぶやいた。