2005年9月14日(晴)

 9月に入ったというのに最高気温が30度を超えようとする中、笹川了平は真昼に比べれば多少は柔らかくなったとはいえ未だ太陽のぎらぎらと照りつける屋上でシャドウボクシングに勤しんでいた。
「シッ……シッ」
 アスファルトの床に、小さい円を描くようにステップを踏みながら、リズムよく拳を繰り出して行く了平の頭上に、ふっと同じくらいの大きさの影が出現する。
 急に遮られた光線に了平は訝しげに足を止め、背後を振り返った。
「ねえ、うるさい」
 建物の屋根から上半身を乗り出して、未だ眠そうな目で彼に視線を据えている人影は、了平の見知ったものだった。
「なんだ、ヒバリではないか。そんな所におったのか」
「何してるの。部活なら部室でやれば」
「休み明けのテスト期間中で、部活動は禁止ではないか」
 動きを止めると、身体の内から放出される熱気が急に意識されてくる。
 了平は息を継ぎ、シャツの襟をくつろげて、風を入れるように布地をばたばたと仰いだ。
 対する雲雀は汗ひとつかいた様子も無く。
「おまえ、そんなところで寝ていて暑くないのか?」
「給水塔の日陰になっているんだ」
 雲雀は大きく欠伸をして、屋根の上ではっきりと身を起こした。
 腕を組んで高い位置から了平を見下ろす。
「成程、お前は本当に学校に詳しいのだな」
「君、何の為の部活禁止だよ。勉強しなよ」
「勉強なら今まで図書室でしていたぞ。これは息抜きだ。机に座ってばかりいると身体がなまって勉強どころではなくなるからな」
「そんなに身体がなまってるの」
「うむ、極限だ」
「じゃあ、ちょっとしたゲームでもしようか」
 雲雀の口調に、少し楽しげな響きが混じった。
 目つきがいつの間にか、面白い獲物を見つけた猫科の獣みたいに光り始めていた。
 普通の生徒ならば一目散に逃げ出しそうな表情だったろうが、生憎了平には通じない。
 俄然眠気が飛んで、生気を帯び始めた雲雀の様子に、逆に興味深げに聞き返す。
「ゲーム?」
「君が、僕に何秒で咬み殺されるかを賭けるゲームだよ」
 そう言うと雲雀は屋根から身を乗り出した。 
 了平のあっと思う間もなく、ひらりとその姿は屋上のアスファルトの地面に降り立った。
 すっと姿勢を直して立ち上がる雲雀と向き合った了平は数秒雲雀の目を直視したまま考え込んでいたが、やがてぽんと勢いよく両手を打ち鳴らした。
「つまり、勝負ということだな!」
「……なに」
「了解した!オレとしては願っても無いことだ。受けて立つぞ!」
 満面に喜色を浮かべ、嬉々としてボクシングの構えを取る了平に、流石の雲雀も呆気に取られた表情をする。
「どうした、かかってこんか!」
 勢いに乗る了平の挑発に、取り出した仕込みトンファーを利き手に構えた。
「そんなに死にたいなら仕方ない。グチャグチャにしてあげるよ」
「やってみろ」
 急激に緊張を増した空気がその場に満ちて、一触即発の段階に至った瞬間、音高く屋上から建物内に通じる階段が内側から開かれた。
「委員長!!」
 飛び込んできたのは、二人よりも頭ひとつ高い長身の男だった。
 この暑いのに長ランまでぎっちりと着込んで、尚暑苦しそうな長大なリーゼントを頭に載せている。
「よお、草壁」
 対峙した二人の間に割り込む形になった男は、状況が掴めなかったのか一瞬左右に目を走らせたが、すぐに、声もかけなかったほう、すなわち雲雀に直立不動で向き直った。
「委員長、例の件ですが、奴等が動き始めました。如何なさいますか」
 聞きつつ、草壁は了平のほうへとちらと目を走らせる。
「…仕事が入ったみたいだよ。笹川了平。残念だけど」
「なんだ、風紀委員のか?オレのことならかまわんぞ!待っていてやるから云って来い!」
「待ってなくていいよ」
「気にするな、お前も随分多忙のようだからな」
 話がかみ合っていない。
 言い返そうとした雲雀を、草壁が無言で止めた。
 促すようにして、燦燦と日の照った屋上から薄暗い踊り場に出る。
「なんだあれ」
 そう呟いて、あとはもう振り返りもせずに草壁を押しのけるようにして先頭に立ち、階段を早足に下りていく雲雀を追う草壁は、心の中でその背中にそっと囁きかけた。
(委員長……この間までのオレの苦労、分かっていただけましたか…!)



「―委員長、お疲れ様です!」
 並盛中学校の校門前で、野太い声が唱和した。
 その声を向けられた雲雀は、鬱陶しげに目の前の学ランの群れを見やると、短く一言言い捨てる。
「解散」
 押忍、とまた唱和した後で、リーゼントの集団はさまざまな方向に散ってゆく。
 西に日は落ちかけて、空は一呼吸ごとに藍色に濃く染まってゆく時刻だった。
 校門の前に残るのは、雲雀と、もう一人草壁だけだ。
 数時間前、校門を出たときに比べて、真っ白いシャツの袖口がほんの少し茶色く煤けているほかは、何の変化も見られない雲雀に、遠慮がちに草壁が問いかけた。
「委員長、校舎に戻られるのですか」
「戻ったら、なに」
「いえ…失礼しました。オレもこれで」
 一礼して踵を返す草壁を一睨みして、雲雀は通用門をくぐり、校舎へと向かう。
 人気の無い廊下を通り、一年の教室へと向かう。了平と雲雀のクラスであるA組の扉を開けると、教室の真ん中辺りで机に突っ伏して健康的な寝息を立てている笹川了平がいた。
 つかつかと歩み寄り、了平の深く腰をかけた椅子の底面をつま先で蹴り上げる。
 椅子は鈍い音を立てて僅かに宙に浮き上がり、了平は大仰な動作で跳ね起きた。
 机に片手を着いてなんとか倒れずに済んだ了平の横で、がらがらと椅子が横ざまに転がった。
「何事だ!地震か!?…おお、雲雀!今帰ったのか」 
「本当に待ってたとはね」
「待つといっておったろうが!さあ、続きを始めるぞ」
 眠気の吹き飛んだ顔で、嬉しげに構えをとる了平から雲雀は一歩距離を取った。
「咬み殺すのは今日はやめだよ。お腹空いたから帰る」
 了平は意外そうに目を見開く。
「むっ…貴様、腹が減ったのか」
「君と違って働いてたんだよ」
「成程。お前、随分と偉いな」
 嘘ではない。
 つい今まで、敵対していた高校の武闘派達の脳天に思う様トンファーを打ち下ろして、笹川了平を咬み殺すことで満たそうとしていた闘争心も程よい具合に収まっていた。
 次は読んで字のごとくの生理的な飢えを満たす番だと思っていた。
 雲雀の説明に、大きく何度も頷いて納得するかと思えた了平は、しかし、引き下がることなく替わりに思いもかけない選択肢を提示して見せたのだ。
「ならば、まずは手合わせだ。そして、その後メシを食って帰るぞ!」
「は?」
「お前は知らんだろうが、体育祭のミーティングに時々使っている定食屋があるのだ。量が多くて美味いぞ。特にハンバーグ定食がお薦めだ」
「……あのさ、君とご飯を食べて僕に何の得があるわけ」 
 雲雀の問いに、了平はにやりと笑って見せた。
 雲雀のあまりみたことのない、ふてぶてしさすら感じさせる笑顔だった。
 単細胞の馬鹿としか見えなかったのに、こんな表情もするのだと思った。
 一年生にしてボクシング部を立て直し、ほぼ一人の力でまがりなりにも部活として成立させている男の顔だといわれれば納得できる気もした。
「負けたほうが奢る、というのはどうだ?」
 お前、実は勝負事が好きだろう。分かりやすいぞ。
 了平はそう言うと、雲雀がじとりとした視線を据えてくるのにも構わずに、今度はあっけらかんとした笑い声をたてた。
「その定食屋とやらは近いの」
「近いぞ。5分くらいだな」
 ここで笹川了平を潰すのに30秒として、家に帰るよりは幾分早いだろうか。
「……いいよ。付き合ってあげる」
「まことか!よし、場所を移すぞ」
「それには及ばないよ。すぐに終わるから」
 そう言うと、雲雀は片手に構えたトンファーをひゅっと回転させて、了平のほうへと無造作に距離を詰める。
「!」
 咄嗟にガードを固める了平の前で、大きく身体を沈ませて、そのまま十分に体重を乗せた一撃で胴を薙いだ。
「ぐっ」
 辛うじて堪え、机や椅子に囲まれて身動きのとりにくい中で再び間合いを取り、構えなおす了平に、雲雀は薄く唇に笑みが上るのを隠さない。
 膝をつかず、踏みとどまるその姿勢は悪くないと思った。


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